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新生黎明塾


社会に埋没して自分を見失う道もある。

自分を取り戻して社会に貢献する道もある。

人生には数多くの道があるように思える。

その多くの道はそれぞれの道を歩むに過ぎない。

そこに何も問題はない。

ふと、いま自分は何をしたらよいのか。と考える人たちも数多くいるようだが、ひとりひとりの中にその答えは存在する。

それぞれの人生を否定も肯定もすることなく世の中に問い続けよう。




第1部 奇跡の原点


人々よ、目覚めよ…。

目を閉じたら、そこには自分の世界が広がる。

目を開けた瞬間に彷徨いの世界が待っている。


言葉(特に日本語)とは、実に面白く魅力を感じるものである。

目を閉じたら自分だけの世界。そして目を開けたら彷徨いの世界が待っているからこそ、「目覚めよ」と言えば矛盾を感じる方も大勢いると思うが愚問は要らない。

人間として社会で営む限り、日々(日常)の言葉の中から本質を見極める力は「人間力」を高めるために不可欠な要素である。


数年前に、とある人物と話した時の会話が未だ自分の心に刻まれている。その時の会話の前後はあるが、誰もがよりよく生きるために見逃せない最も重要なひと言がある。

「人間は創造して生きるものやのに創造することが苦手らしい」

文字に書けば僅かな文章(言葉)だが、この短い言葉の本質を見極めることが出来たなら自ずと人間力が高まるであろう。

昨今、引き寄せの法則と称されるものが流行っている時代。

「創造することが苦手らしい」と言うこの言葉から遠くかけ離れている「引き寄せ」は、未熟な思考であることに気付くだろうか。

決して引き寄せの法則と称する思考を否定することはないが未熟な思考に違いない。

ここで重要なことは、法則ではなく思考として扱っている点である。この引き寄せの思考は自分自身の世界の中の結果としての法則で扱うことが可能であるが、先ずは「人間は創造して生きるもの」という言葉に目覚めることが先決である。

この大宇宙に人間が創造したものは何もない。という極めて正論に思える見解は承知の上で、人間は既にあるものを引き寄せて生きることが基本ではないことを述べたつもりだが、この矛盾を含んだ論理の中から真実を汲み取ることが必要である。

なぜならば、自分という存在の意義に関わるからである。


「人間は創造する存在」

これが人間としての基本である。では…、何を創造するのかと言えば、自分自身の世界を創造することであり、そこにあなた自身の存在と人生の意義を見出すことが可能となる。これが人生の基本でもある。いや、全てだと言っても過言ではない。

逆に…、自分自身の世界の創造とは何かが分からない者は、自分自身の人生の意義を見出せないだけのことである。究極的には、自分がなぜこの世に生まれてきたのかが分からない人生を歩むこと自体も自分自身の世界の創造の結果である。したがって否定も肯定もされるものではない。自分自身の存在の意義を見失って生きる道、或いは、自分自身の存在の意義を知らずに人生を歩む道もあるに過ぎない。


人間力を高めるとは、自分自身の世界を創造する力への目覚めである。


これを人間の眞の素晴らしさへの目覚めであると言い変えることも可能である。ただし、仮にあなたが他人と認識している存在があるならば、その存在(他人)から眞の素晴らしさを見出すことは有り得ない点については注意すべきである。

「目覚め」とは内なるものであり決して外なるものではない。あなた自身の内なる出来事であり、自分自身の素晴らしさへの目覚めが、眞の人間の素晴らしさへの目覚めであることは明らかだが、多くの者は「現実を直視した時にそうはなっていない」と感じることが往々にしてあるらしい。一般論として平たく述べれば、現に自分より優れた人物、或いは素晴らしい人物は数多くいると感じることが現実の様だ。仮にあなたがそう感じるならば、その通りだと思う。現に自分より優れた人物、或いは素晴らしい人物があなたの周囲に数多くいることがあなたにとっての現実なのだと思う。あなたにとって現実化された現実を絶対視して、その優れた人物、或いは素晴らしいと思える人物から、眞の人間の素晴らしさを見出すことが可能であればそれはそれで良い。自分以外の他人を見て、あの方は素晴らしい、優れていると感じることは良いことであろう。

ただし、その思いは、自分との比較に拠って得られるもの。あなた自身は人間ではないのかと、わたしにはふと疑問が残る。あなたがあなた自身の素晴らしさに目覚めることなく眞に人間の素晴らしさが理解出来るのだろうかと…。真実は人間と人間の比較に拠って人間の眞の素晴らしさへの目覚めと云う言葉自体が成立しない。ところが、自分自身に対して…、いや人間とは未熟な存在だと認定する者が現代社会には数多くいるようだ。


これに関連してある学者が曰く。

「完全な存在は神のみ。人は不完全な存在」

この様な思考を持つ学者も数多くいるようだが、人が不完全であれば人間の眞の素晴らしさへの目覚めと云う概念自体が必要ない。日常で用いられている様に、あの方は素晴らしい。或いは長所と短所という概念で留まることになる。このような概念を否定する訳ではないが、人間としての眞の目覚めはないと云うだけである。


「完全なるものを神と云うならば、人も完全なる存在」

この論調を「宗教なのか」と多くの人は問う。

「ああ、宗教であり哲学であり科学であり芸術であり音楽である」と答えれば、多くの者は「意味が分からない」と言う。ならば「すべては入口の違いであり内に秘めた輝きに向かう道」と答えておこう。不完全さを求めてあなたは存在していない。

どのような時代であっても、この世に生を享けたなら完全なる自分を知るための存在があなた自身ではないのか。内に秘めたる輝きに目覚めよ。

自分自身の素晴らしさに向かうことが人生ではないのか。その道に真実の美しさがあると云うのに…、人間を不完全と位置付けた時点で自分自身の素晴らしさに目覚めることがない世界を己自身が創造する。すなわち人間の眞の素晴らしさに目覚めることがなく、人生の意義を見出せないという結論さえも付随させている。


次に…、何処までも言葉を取り扱う者の楽しみを超えない範疇で「完全な存在は神のみ。人は不完全な存在」という言葉に込められた矛盾の指摘をする。

完全な存在は神のみ。これは、宇宙創造の絶対的な存在を指しているのだろうか。そして、人間を創造した存在とは何か。人間が人間を創造したとは思えないことから、完全な神が大宇宙を創造したと云う前提、且つ言葉遊びの範囲内で、人は不完全な存在であるならば人間を創造した存在は不完全という理屈が可能になる。その結論は不完全を創造した時点で完全な存在ではないと云う言葉遊びが可能であり、完全な存在は神のみと定義した時点で、すべての存在に不完全は有り得ないと云う理屈が導き出される。とは言え…、この言葉の持つ本質を察して、いや、真髄を汲み取って少し精度を上げてみたいと思う。


完全なる存在は完全なる創造を行う。この大宇宙を完全なる存在として創造するが、その完全なる創造の中に人間と称するものを創造した。ただし、この創造は物質化現象のことであり人間は五感を有する存在として創造された。人間と位置付けて生きていくための制約条件を有しているだけのことである。人間はすべての存在に対して五感を用いて認識することが可能となっている。ところが五感自体が認識力の限界になっていることから人間が不完全と捉えられることは仕方ない。

だが、その原点にあるものは「創造」と云う意識であることが重要である。

大宇宙創造の意識に拠って人間は存在する。完全なる創造であれば人間も完全な存在。

すなわち意識と称する存在自体が「創造」を原点とする。

意識により現象化(物質化)させたことが原点であるならば、ひとりひとりの人間がどのような存在なのかが分かるはずである。たとえ五感の縛りが有っても人間は意識を有している。その意識とは創造する力である。


何を創造するのかと言えば…、他者の世界を創造することは不可能なことから、自分自身の世界の創造が結論となる。この決論は自分自身の世界を完全に生きている存在であり、決して不完全に生きていない。と云うことだが、いや、簡単にこれが結論と言われても理解出来ない、或いは納得しない方もいるに違いない。

他者の世界を創造することは不可能なこと自体は理屈が分からなくても理解出来る様な気がするが、自分の世界を創造するとは何かを掴みきれない状況では納得出来るはずがない。

人間として確かに意識と云う存在を実感する。だが、意識が自分の世界を創造していると云う意味が解らない。これが現代人の多くの者の本音ではないか。


自分自身が世界を創造出来ると仮定しても、他の者と共有する部分が多くあるように感じるはずである。他の者との共有が余りにも多く有り過ぎて自分の世界の創造は有り得ないと答えが導き出されるかもしれない。これは極めて一般的な感覚であり、あなた自身が社会で生活を営むことに於いて何ら問題はない。


いや、共有感覚が多いほど良いのかもしれない。ただし、人間力を高めることを課題にして問題を敢えて提議するならば、自分と他人と云う認識の世界での一般的な共有感覚は人間力を高める点に於いて阻害要因となることを指摘する。これはあくまでも、現代社会に於ける世間一般的な共有感覚に対する指摘である。その理由は余りにも簡単で、一般的な共有感覚とは、自分と他人の隔たりの世界を意識する要素で扱われているからである。意識の原点、或いは、意識の結果は創造であることから、一般的な共有意識は自分と他人の隔たりの世界を創造することになる。

自分と他人の隔たりに拠る共有は可能である。その逆に自分と他人が一体であれば一般的に言われる様な共有を創造(意識)することはないと云う世界観になる。となれば、もっと奥深い意味での共有感覚の強化による方向性を探求する道も有り得ることになる。

この様に、五感を用いた意識下の世界観にあっては多面性があるため何が正しくて何が間違いなのかは論外となる。拠って人間力を高めることへの思考性を持つことや、自分の世界を創造する道を選ぶことが賢明であるとしか言いようがない。

なぜならば自分を見失うことのない人生を歩むためである。


次に自分の世界を創造するとは一体どういうことなのか。

分かりやすいひと言で表現するならば、この地上世界に於いては『すべてを楽しむ』と云う言葉に集約されていく。だが『すべてを楽しむ』と云う概念を捉えることは一般的には難しいらしい。なぜなら「人生には山あり谷あり」と云うことを誰もが実感しているからである。確かに例外なく誰の人生にも様々な出来事がある。楽しい時もあれば悲しい時もあり、苦しい時もある。様々な時を積み重ねることが人生に違いないと云う思考から『すべてを楽しむ』と云う概念を捉えることは確かに難しいが、無造作に時を積み重ねるだけでは何も生まれないことから本当に何も間違っていないのか。或いは、得るものはないのかと自身の思考の中で何度も立ち止まり振り返る。この思考を何度も何度も飽きるほど繰り返していると『すべてを楽しむ』と云う概念を掴み切れない原因は『人間の持つ様々な感情や感性のすべてを受け入れていないからだ』と観じるに至る。そして同じ原因に拠って、自分の世界の創造の真髄と概念を捉えられない要素になっていることも指摘する。


『人間の持つ様々な感情や感性のすべてを受け入れていない』

仮に…、この観じ方に正当性を感じる者は、様々な感情や感性のすべてを受け入れていないとは、どう云う意味なのかを知ることが人間力を高めるための重要な要素になることを知り得ることになる。逆も然り、正当性を感じない者はその要素を知り得ることがない。

知り得る者と知り得ない者。これは、どちらであっても何ら問題はない。その結果は、自分の世界の創造とは何かと云う概念を捉える者と捉えない者の相違だけである。


たとえば『喜怒哀楽』という言葉が有る。

喜びの心、怒りの心、哀しみの心、楽しみの心が人間に備わっていることは誰でも理解容易いと思うが、喜怒哀楽で言うところの「楽」と「すべてを楽しむ」と云う概念は大きな相違がある。この感覚の違いを掴めれば「人間の持つ様々な感情や感性のすべてを受け入れていない」と云う言葉の持つ意味が理解可能となる。

喜怒哀楽で言うところの「楽」は、それぞれを個別のものとして並列に扱っていることが基本にあり、それに対して「すべてを楽しむ」とは、喜怒哀楽のすべてを内包する。

この違いを理屈で見抜くことが大切。


喜怒哀楽を並列に扱えば、喜びの心、怒りの心、哀しみの心、楽しみの心は、それぞれが単体で存在していることになり、それぞれ個別の感情から生じることになるため、それぞれが個別の感覚として存在していることになる。それに対して、「すべてを楽しむ」を言葉通りに捉えたら「喜怒哀楽を楽しむ」と云う趣旨になるが、多くの者は「怒りの心」や「哀しみの心」を楽しむことが出来ない。或いは「怒りの心」や「哀しみの心」を楽しむことが可能なのかと疑問に思うのではないか。怒りや悲しみを楽しむことは不可能と思えたら、なぜそう思えたのかを逆に問いたいと思う。この問いに理屈は必要ない。


なぜならば、人生を幸福に生きたい。日々を怒って暮らすより笑って過ごしていたい。哀しみの日々より楽しみの日々を送りたいから、怒りや悲しみを楽しむことは不可能に思えたはずである。正に一般的な感覚が答えになるため理屈も要らないし、人間として元々備わっている感覚(性)に対して正誤も要らない。ところが、人間として備わっている感情(感性)に対して受け入れたくない存在。或いは、受けいれないとなれば、その要素に対する否定であり、先述の通り『人間の持つ様々な感情や感性のすべてを受け入れていない』と云う言葉に辿り着く。したがって、人生自体に苦しみと楽しみ(苦楽)があるからすべてを楽しめないのではなく「すべてを楽しむ」と云う概念を掴めないから楽しめないのであり、その原因は自分の中に否定する感情を兼ね備えているからだが、そのことに問題があるのかと問われたら、何ら問題はないと答える。そして、この世に住み給う人間とは面白い存在であるとしか言い様がなくなるが、人間力を高めることを目的とするならば「喜怒哀楽」とは、本当に単体で並列的な感情なのかの問いに対して深める必要があり、重要な課題として何ら変わることがない。それにこの課題は「喜怒哀楽」の言葉に込められた本質に関わるものであり、喜びの心、怒りの心、哀しみの心、楽しみの心は、それぞれが単体で存在すことが可能か?不可能か?は、各々の心の内での問いかけである。

したがって補助的に次の通り記述する。と言っても、その理屈は余りにも多く存在する。なぜならば、これが答えと云う絶対的なものは存在しない世界が五感でのみ認識する世界で在ることに拠る。そこで、絶対を有することがない世界の醍醐味であることを前提に、人間の持つ感覚をひと言でまとめて「人間が生じる感情や感覚は相対する一対の存在で認識する」と云う観点から解説する。


人間としての喜怒哀楽は、「喜びと楽しみ」に対して「怒りと哀しみ」が相対する一対の存在と云う結論は次の通り。

何らかの外部的な刺激に対して発生する気持ちが感情であり、その気持ちに対して生じる「快・不快」等を感覚と云うが、すべては、相対する一対の存在である。個別に存在出来ないという意味である。より正確に言えば「左右」や「上下」と云う認識も起点の存在を含めて三つの存在に拠って相対する一対であり、一体の存在になっている。これらは、すべての存在(認識)に対して同様である。「上と下」「左と右」を「好きと嫌い」や、「愛と憎しみ」等の心の作用に変更することも可能。それ以外に「寝ると起きる」や「冷たいと熱い」等にも変更可能なことから、「右」という認識がなければ「左」と云うものを認識出来るだろうか。と思考を巡らせてみるのも面白いのではないかと思う。その思考の辿り着く先は…、宇宙の果てはどうなっているのかと巡らせる様なもので結論を出せないに違いないが、「左右」は相対する一対のものとして存在することがこの世界で生きる者の限界であり、これは五感のみで認識する者(人間)の証である。

本音は、第六感、第七感、第八感…、これらの世界もあると言いたいところだが、眞に本来の自分を取り戻す道にすべてが内包されていることや、元々すべての現象が心の作用であることからも一般的な意味での超人的なものを目指す必要はない。


“心の作用の起点とは、あなた自身である”


この様に人間としての心の動きや認識可能な世界とは面白いものであり、その認識には限界があることを少しは感じることが出来たのではないかと思う。それに加えて、喜びの心、怒りの心、哀しみの心、楽しみの心は、それぞれが単体で存在が可能かに対する疑問視の意図するところの幾分かも汲み取れたのではないかと期待するが、一部の者の思考は堂々巡りするかもしれない。何度も言うが、一般的にはそれぞれを個別の存在と捉えていることが日常生活に於ける思考だが、単体の感情や感覚等はこの世に存在しない。

人間として生じる感情や感覚のすべてを受け入れることなく否定する行為自体は、自分自身に対する否定に過ぎない。これは極めて重要な事柄である。単純に…、自分自身を否定する行為は内面的なストレスとなり、何らかの病をもたらせるに違いないが、その病を創造したのが自分自身と云うことになる。


「喜怒哀楽」は一体のものであり部分的に否定されるものではない。用い方の問題であり、すべての感情や感覚があるからこそ、すべてを楽しむ人生を可能とする。心の作用や人として生じる感覚の本質を知ることから人間力を高める道を歩み始め、心の神秘を感じとり、そして観じることが出来たなら、すべてを楽しむことが可能となる。

すべてとは存在である。あなたにとっての存在とは、あなた自身が認識し得るすべてであり、たとえ自分自身の世界を創造することなど不可能と思ったとしても、それ自体も創造である。ひとりの例外なくその道の行く先には自分の世界の創造あるのみ。

そして、ひとりひとりが存在を楽しむ世界を観じ給う世に感謝あるのみ。


存在を楽しむ世界に感謝。

感謝の言葉を多くの者は「有難う」(ありがとう)と言う。

「有難う」とは、有る事が難しいことを指す。対して、有ることが難しくないことを「当たり前」或いは「当然」等と表現し「有難う」と一対になっている。


一般的な感覚として、当たり前と感じることに感謝の言葉や気持ちは不要となる。

寝たら起きて当たり前。朝に太陽が昇っていることも当たり前。夜には月。空気の存在も当たり前。日常のすべてが当たり前。有る事が当然ならば、或いは、有る事が難しくない事柄に真なる感謝の気持ち等は要しないが、今ここで感謝の気持ちを持て等の道徳的な理屈を並べようとは欠片ほども思っていない。


有る事が難しいとは何を指すのか。

その原点に対する問いかけに過ぎない。


先述の通り“心の作用の起点とは、あなた自身である” これ以外にない。あなた自身があなた自身の存在を認識していなければ何処にも自分自身が存在しないのだから…、感謝の気持ちなど湧くはずがない。それ以外のすべての感覚が生じることもない。


有る事が難しいとは「奇跡」そのものを言う。

たとえば物理学的にも生命が誕生出来ること自体が奇跡らしい。大宇宙はあまりにも出来過ぎていることは分っている。物理学に於ける定数が少しでも異なっていれば生物等の複雑な構造が存在しないことも多くの研究者の一致する事柄とされている。生物等の複雑な構造が存在すること自体が有ることが難しい存在であり、元々、人間とは奇跡の世界の住民である。有ることが難しい有り難い世界に生きている。

その奇跡は、あなたが自分自身を認識していることに原点がある。


「我は在りて在る」

先ずは自分自身を自らが認識する。自分自身(我=われ)と云う存在がなければ、あなたの世界には何も起こらない。そもそも、自分自身の存在がなければ、あなたが認識する世界の存在すら無い。すべての現象は、我と云う奇跡的な存在を原点とする。自分自身の存在が奇跡であるからこそ次なるすべての出来事や事象が奇跡として存在する。言わば…、自分自身を起点にした奇跡の連続が積み重なる世界があるのみ。その世界は他人を起点にした世界ではなく、自分自身(起点)の意識下で自分の世界が構築されていく。


ところが、自分自身の存在自体が奇跡でなければ、自分自身の世界と云うものを意識することのない人物としての人生を歩む。自分自身の世界を認識することなく、無造作に社会を意識する。その様な認識の人ばかりの社会とは「すべてが当たり前」に陥るに違いない。当たり前が日常の基本となり、自分の存在自体も当たり前が基本であれば、明日の命さえも含めて何もかも有ることが当たり前の連続となる。

仮にこの様な人々が数多く共同で暮らすなら、眞に沸き起こる感謝の気持ちが分からない社会が展開されるかもしれない。超能力的な現象を奇跡と言い、誰かに優しくしてもらったら「ありがとうと言いなさい」等と限定的な感謝として扱う社会をどう捉えるかだが、やがて訪れる新たな社会や時代への胎動はいつの時代にも既に存在する。


「すべての存在にありがとう」と「存在を楽しむ世界に感謝」は同じことだから、人生とは「すべてを楽しむ」と云う言葉に集約されていく。すべての存在に対して本質を観じ得ながら人生を歩むなら自分自身の存在自体が当たり前に感じることはない。

すべては「奇跡」であり「有り難い存在」が基本となる。

これは、人間力を高め創造力豊かな人生のために最も大切なことでもある。

いまの瞬間に存在する自分自身に感謝。いまの瞬間に存在する自分自身があらゆる現象を感じ取っている。様々な現象を感じ取る自分自身が存在する。自分(我=われ)の存在が奇跡ならば、自分が認識し得るすべては奇跡の積み重ねだと観じ得る。

そこに「有難う」の心が宿る。

(感謝)

 
 
 

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